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人と対話するのは楽しいし難しい。 自分がしゃべっている間に、その口で言っていることと違うことを頭の中で意識したりする。そしてそれが「そうだよね」と合点されたと同時に、(いやほんとは、そう言いたかったわけじゃないんだけどな)と思ったりもする。 自分がそうだから、相手も相手の内部で少なからずそういうことを感じていると想像する。そしてそれが事実なら、会話の表層で使われる言葉は、お互いの意図の全てをあらわすわけではないし、全てを理解しあえるものではないことを前提としているほうが幸せのようだと思う。 コミュニケーションもしくはcommunicationはカタカナでも英語でも、日常の中で使われる一般的な日本語となっている気がする。しかし、その真意はどこにあるだろう。日本語で「会話」や「対話」、さらに「意志疎通」「相互理解」といえば済むことをコミュニケーションと言うのは、何がそうさせるのだろう。自分のものになっていないカタカナ語は使いたくないものだ。 じゃ、俺が使うときはどうか。自分が使う言葉は、なるべく自分の腑におちるように選んでいるつもりだが、あえて「コミュニケーション」と使うときはどんな心境で俺は使っているだろう。 コミュニケーションは、語源的には、「common」であり、「共有」「共通」ということだろうと思う。言語学的に確かめたわけではないが、遠からず的を得ていると思う。コミュニケーションに「共有」の意味が内包されているなら、そして「共有」しうる立場をお互いがとるということなら、コミュニケーションをとろうとしているその相互の対象は対等であるべきではないのか。 そしてその対等であることとは、対話に表出している言葉が全てではない、また、口から出ている言葉とその人が頭の中で持っている概念とはズレている可能性があることを対象同士双方で前提にしている必要があるのではないか。相手の口から出てくる時点でのズレと自分が受け取る時に生じるだろうズレ。そしてその2重のズレをいったん承知のうえでうけとめて、各人の概念や語彙の範囲からぴったりくる位置を見つけだし、そこからまたこちら側は発信する。その繰り返しが「対話」であるだろう。 そしてその位置を見つけだすときには、わずらわしさを伴うから、相手を思いやる気持ちがないと柔軟な対話は成立しないだろう。 お互いが対等に思いやる気持ちを持って、結論を急がずに、言葉の向こうに広がる概念の原野でお互いの出発点や着地点を想像しながら会話を進めるならば、豊かな対話が実現し、そしてその対話の後にはまた新しい「関係」が見えてくると思う。
by akio_tokunaga
| 2007-05-25 14:57
| diary
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